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ヘンリーフォード

 ヘンリーフォード Henry Ford

アメリカ合衆国出身の企業家、自動車会社フォード・モーターの創設者であり、工業製品の製造におけるライン生産方式による大量生産技術開発の後援者である。フォードは自動車を発明したわけではないが、アメリカの多くの中流の人々が購入できる初の自動車を開発・生産した。カール・ベンツが自動車の産みの親であるなら、自動車の育ての親はヘンリー・フォードとなる。できることなら、どんなことでもできる。

 

「我々は商業的価値のあるものだけを発明する」

ヘンリー・フォードはそんなエジソン研究所の一員。1908年、今世紀最初の大ヒット商品・T型フォード車 を開発。とにかくたくさん売りたい。そのためには安い値で誰でも買えるようにしなければならない。 フォードは考えた。

その結果が、現在どこの工場でも見られる、単純作業のベルトコンベアーによる流れ作業だった。
この方法で大量生産するために多数の労働者が必要となった。それがいわゆる「アメリカン・ドリーム」 から集まってきた移民たちだ。相場の倍以上、日給は5ドルもでた。「5ドルだ!5ドルだ!」人々はそう 叫びながら工場にやってきた。車の製造スピードは従来の500倍、値段は半額。労働者の給料2ヶ月 分で自家用車に手が届くようになった。
フォード社長は賃金を得た労働者をまず消費者にしよう、と考えた。そしてその思惑通り、彼らは自分が 作った車をまず最初に買うことになる。何万人もが一斉に車を持ったのだ。
工員たちの豊かさはバブルのようにブクブク膨らんだ。フォードの大量生産方式は他の産業にも波及し、 電気冷蔵庫だった。電気トースター・電気掃除機など、家庭の家電化が急速に進んだ。大消費時代 の到来。それは豊かさという飽くなき欲望の華々しい始まりその頃、アメリカでは油田が次々に開発され 始めている。ガソリンの値段も安くなり、人々はますます車を求めるようになった。
以下フォードの自伝より————————————————
「私は自動車によってこの国を作り変えた。人々は繁栄したから車を持ったのではない。車を持っている から繁栄しているのだ。産業の真の目的は、人間を生存労苦から解放することなのだから」
大量消費。それは販売競争でもある。広告産業がいっきに開花した。街には洗脳じみた看板が溢れ はじめ、雑誌や新聞に掲載された現在のように半分は広告で埋められるようになった。通信販売や ローンもこのとき生まれた。そのような販売方法が大量消費に拍車をか電化製品により大幅に家事から 解放されることになった女性たちは、余った時間で美容を求めるようになる。化粧品・ファッション産業 の始まりだ。豊かになった社会。余暇は増える一方。生活時間は次第に夜に映っていく。 男たちはキャバレーやストリップなど、夜の娯楽を求めて街へ盛んに繰り出すようになった。

 

●モダンタイムス

27年。T型フォードの生産台数は1500万台を突破。街は車で溢れ、渋滞があたり前。そして賃金、 つまり豊かさを求めてきた労働者たちは、次第に何か疑問を感じ始めるようになる。 とにかく、一日中同じ単純作業を繰り返すだけ。精神的苦痛を訴える者が多く、フォードの工場からは 一日に100人近くの労働者がやめていった。

「フォード様、失礼を承知で申し上げます。うちの主人はもはや機械の奴隷です。機械が動いている間 はトイレにも行けません。帰宅後はぐったりとして子供を抱きかかえてやることもできません。 このままでは家庭が崩壊してしまいます」(ある労働者の妻)
ヒゲをとり、真面目になったら非常に紳士であるチャップリンは、精神を病む労働者を描いた「モダン タイムス」を制作。フォードが築いた大量消費社会を痛烈に皮肉った。 人間は豊かさを求めるあまり、かえって貧困に陥っている。機械と人間、どっちが大事なの?と。
「あなたは幅の狭い定義に文明を当てはめようとしています。この進歩はもう止められません。 過剰生産といいますが、全世界が満足するまで続くでしょう。いや、満足してもそれは続くかも しれません」とはモダンタイムスに対するフォードのコメント。
1930年代。自動車業界は毎年モデルチェンジを繰り返し、過当競争に生き残りを賭けていた。 その結果、まだ十分に走れる車が大量に廃車され、そして燃やされた。
車だけではなかった。多くの電化製品も同じだった。現代の大量廃棄社会・ゴミの山がわずか 20年足らずで、もはやできあがっていたのだ。
「100年先では我々の事業が利益になったのか、害になっているのかは分からりません。しかし 一つだけ確実なのはヘンリー・フォードがこの世界を大きく変えたということです」(あるフォードの部下)
第二次世界大戦。アメリカの大量生産社会は全世界にその力を示した。 世界中の至る所に見られる大量消費文明。それはヘンリー・フォードが作ったシステムから、異常に 膨れ上がったバブル文明であった。その泡は21世紀、さらにふくらみつづけるのであろうか?

●フォーディズム

フォーディズムという言葉は、フォード自動車会社の創設者、ヘンリー・フォード(1863-1947)の名前 に由来する。

フォーディズムの画期的な側面は、生産効率の上昇に伴う利潤の増大を、労働者賃金の上昇に反映 させた点にある。フォードが、労働者に高い賃金を払った背景には、アメリカの特殊事情がある。
アメリカでは、広大な土地と豊富な木材資源を安い価格で手に入れることができたので、アメリカの 農民はイギリスの農民よりも豊かであった。特に、第1次世界大戦中は、戦場となったヨーロッパへの 輸出が好調だったので、農業は儲かるビジネスだった。だから、労働者に農民となることを断念 させて、工場で働いてもらうには、高い賃金を払わなければならなかった。そして人件費が高いからこそ 、機械化による合理化が求められた。
もっとも、フォードは、しぶしぶ高い賃金を払ったわけではなかった。晩年、私財の多くを慈善活動に寄付 したことからわかるように、彼は、決して私利私欲のために起業したのではなかった。フォードの経営は、 今日私たちが「日本的経営」と呼んでいるものに近く、株主や銀行家のために利潤を追求するのではなく、 消費者に安くて良い製品を提供し、労働者に高い賃金を支払って、社会に奉仕することを経営の目標とした。 このため、フォードは、外部資本が経営に介入することがないように、自己金融による経営にこだわった。
このフォードの経営方針は成功した。高い賃金をもらった労働者たちが、その金でフォードの安価な 自動車を買ったからだ。こうして、労働者の収入が増える→自動車の需要が増える→大量生産により自動車製造のコストが下がる→自動車の価格が下がり、労働者の賃金がさらに増える→自動車がさら に売れるという循環のおかげで、ヨーロッパでは一部の金持ちの贅沢品であった自動車が、アメリカでは 大衆向けに大量生産される商品となった。

 

自動車が普及すると、郊外に大きな家を建てて都心に 勤務するという中産階級のライフスタイルが広まり、マイホームの建設とそこに設置する家電製品の 需要が増大する。フォーディズムは、家屋、洗濯機、冷蔵庫、電話、ラジオなど他の分野にも取り入れられ 、アメリカは、世界で最初の大衆消費社会となった。
アメリカが、イギリスに先んじて大衆消費社会に移行できたもう一つの原因として、イギリスのように広大 な植民地を持っていなかったことを挙げることができる。イギリスは、海外に植民地をたくさん持っていた ので、国内の労働者の賃金を上げて有効需要を増やす必要がなかった。マルクスが糾弾したように、 イギリスの資本家は、イギリスの労働者を徹底的に搾取した。
この搾取は、一見するとイギリスの資本家に恩恵を与えるかのように見えるが、国内においても、 植民地においても、消費者の大多数を極貧状態に追いやったために、イギリスの工業は、衣類のような 、貧乏人でも買うような製品しか大量生産できない段階で停滞した。

植民地は、大英帝国に繁栄をもたら したのではなく、没落をもたらしたのだ。
ヘンリー・フォードは、利潤の追求ではなく、社会奉仕を企業の使命と考える理想主義者であった。
それだけに、暴利を貪るユダヤの高利貸しには反感を持っていたようである。 彼は「第一次世界大戦という混乱は、ユダヤ国際金融の陰謀によって惹き起こされた」といった調子の 扇動的な反ユダヤ人キャンペーンを行った。
このフォーディズムをドイツに移植しようとした人物がいた。アドルフ・ヒトラーである。 ヘンリー・フォードは、ナチス党の運動を賞賛し、1922年という早い時期から、外国人としては初めて、 ナチスに資金援助をした。
一方、ヒトラーもフォードを崇拝し、事務所にフォードの肖像写真を飾っていた。フォードの『国際ユダヤ 人』は、ナチス党員の間で聖典のように読まれ、ナチスの手で数ヶ国語に翻訳された。ヒトラーも、 『我が闘争』で『国際ユダヤ人』を引用している。

1929年の世界経済恐慌の波がドイツに押し寄せてくると、失業者数は600万近くになり、社会不安を 背景に、ナチスが党勢を拡大していった。1933年、首相に就任したヒトラーに国民が求めたことは、 失業率45%という深刻な雇用問題の解決であった。そして、ここでヒトラーは、フォードのまねをした。

 

一方で、高速道路(アウトバーン)の建設という公共事業を行い、他方で、安価な大衆車の大量生産を 帝国自動車工業会に命じた。ドイツの労働者は、公共事業で職を得、稼いだ金で、T型フォードのドイツ 版とも言うべき国民車、フォルクスワーゲン・ビートルを購入した。
そして自動車の普及が消費と生産を拡大していった。ドイツの不況は克服され、1939年には失業者数も 30万人に激減し、それは当時ヒトラーの奇蹟と呼ばれた。ヒトラーは、1938年に、感謝の意を表して、 ヘンリー・フォードに勲章を贈っている。その後、熱狂的な大衆の支持を背景に、ヒトラーが、フォードの 提起した「ユダヤ人問題」に「最終的解決」を与えるために、どういうことをしたかは、いまさら書くまでもない。

藁のハンドル (中公文庫―BIBLIO20世紀) 文庫 – 2002/3/1
ヘンリー・フォード (著),‎ 竹村 健一 (翻訳)

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