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「モノづくりの哲学」

「モノづくりの哲学」—Kaizen手法の省エネルギーへの活用

2011年3月11日 東北地方に大地震が発生し、津波が福島原発を襲い、メルトダウンが発生、 無色透明な放射能が真っ暗な北国の闇を舞った。

人類は生活を便利にする為に色々なものを発明した。 鉄製品、槍、鉄砲、車、TV、ITそして原発。
しかし、現在、豊かさの代償として地球に与える環境破壊の影響は著しい。 工場で大量生産方式で発生した資源のムダ(不良品)は地球の資源枯渇に繋がり 資源投資に拍車を掛けている。
又、工場で発生したムダなエネルギーは温暖化の元となり、BRICs等では経済発展に伴う エネルギー不足の代償として原発が急ピッチで建造中である。 現在、世界には既に原発が400基以上あり。
生活を豊かにするための『モノ』づくりが逆に将来の子孫に影響を与えないだろうか?

本当に原発ではヒューマンエラーは発生しないだろうか?
以前、内橋 克人氏が出版された『浪費なき成長』(光文社)を読んだが、そこでもやはり「消費を適正にしろ」、 「市民に政策に参加させろ」、「経済の成長を適正に管理しろ」というような内容が書かれている。
氏はまた以前から松下幸之助をかなり標的として批判してきた。 たとえば、あの有名な水道哲学をも、要するに自社の拡大に合わせた大量 消費を煽る、環境を無視した 経営哲学であるというのである。
つまり、水道哲学は自社のシェア拡大主義の哲学であって、松下には何ら「フィランスロピー」(社会貢献 の精神)がなく、アメリカにおける成功者であるカーネギーやロックフェラーには、なりえない経営者であるという。
しかし、大正時代の物がなかった時代の考え方、経営哲学としては松下幸之助の考え方はまさに当を得た回答で あったと私は思える。 松下幸之助が『水道の哲学』を考えた時はその時代のベターであったであろう。
しかし月日が過ぎ70年も時間が過ぎようとしている。 世界は激変した。グローバル化、省資源、モノあまり、・・・・その時代にマッチしたシステムに変化 しなければ企業は衰退するしかないだろう。
時代は変化する,諸行無常である。 当然、70年前の考え方が物が溢れきった現代に通じるわけがない。
但し、人間は保守的である、昨日の考え方を変えたくない、変えるのが怖い。 よって外部環境に適合でず、徐々に衰退していく例が古代から天空に煌めく星に数ほど列挙にいとまがない。
今こそ「モノづくり」の本質を考え直さなければならない。そのために「モノづくり」の哲学が必要となる。

地球が放射能に汚染される前に現在ある太陽発電等の自然エネルギーをKaizen手法によって性能を向上させることは可能である。 我々がそう望み、行動しさえすればすれば・・・・。

 「モノづくりの哲学」ダイジェスト 著者:小林 昭

1.ホモファーベル(工作する人)としての『モノ』づくり

中期旧石器時代にネアンデルタール人が現れ高度な文化を作り上げた。 この時代に使われた典型的な道具が『握り斧』である。
この鋭い切れ味を持った『握り斧』は狩猟用武器、動物のかわはぎばかりでなく木の採取、 根の掘り起こしなどにも用いられた。
地球陸地の4分の一を占める広範囲の場所から出土しておりまた十万年以上にわたって使用されていた 形跡がある。長い年月にわたり広範囲な地域でほとんどおなじような形状を持っていたことは驚異に値する。
肉体的に動物より劣る人が生きる為の手段として共同的な狩猟生活を送りながらこのような道具 を考えつくり、、使っていたのであろう。
道具として使える石材の性質をよく見極め、その性質をうまく生かした造り方を経験的に見出していたのであろう。 人類の『ものづくり』の最初の歴史であると考えられる。

人類最初の道具 『握り斧』

”狩猟時代には獲物を追いかけて移動する生活が主であった。そのため移動の自由度を確保することが モノの価値判断の基礎であり「自分のために、必要なものを、必要なときに自分でつくる」という生産方式が 取られていた。

すなわち
・自分の生活に必要なモノは何か?
・そのものを造るにはどんな材料がよいか?
・その材料はどんな性質を持ったものか?
・その特性を生かした加工をするにはどんな方法を採れば良いか?
今でいう設計段階から材料の選択、材料特性に合わせた加工方法の開発、選択、製作工程のはじめからから 終わりまですべてを一人で考え、製作し具体化していた。

2.農耕社会のモノつくり

農耕社会になり一箇所に比較的長く定住して農業を営みながら集団生活することにより人間の生活には不安が 少なくなってきた。また農業生活では一年の内、暇な時間、農閑期が生じるようになる。 その期間は農業に従事しないでよい豊富な時間がある。 そこで多くに機械、道具類を考えだすことができるようになった。 これが「人類と機械の歴史」の始まりといわれるゆえんである。
それとともに農業に従事する人とものを専門につくる人の区別がこの時代から始まった。 この頃になると農業に従事してない人達が農業そのものを知らないで農業に必要な道具類を注文に応じて 製作するという体制が生じていった。

3.加工技術の開発歴史

はじめは石器として適当な石を探して使用していたと思われる。 しかしそのような石が無い場合に原石を割り、磨きという技術を開発していたと思われる。
そしてその磨くという技術が獲物を採るための槍、もり、針そして工作する為の斧、小刀、鋸を 製作するための応用技術とて展開していったと思われる。
・磨く技術の開発 『勾玉』

・穴をあける技術の開発
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4.金属を手に入れてからの物づくり

紀元前4000年頃メソポタミア地方で発見された『銅の溶錬法、銅の鋳造法』により銅製の道具、武器が製作 されるようになり『もののつくり方』が一変する。 つまり

 

・鉱山から鉱石を掘り出す
・鉱石を運搬する
・鉱石を溶かし金属を取り出す
・取り出した金属を溶解して鋳造する
・鋳造後槌で叩いて延ばす
・石、砂等で擦って仕上げる
というように組織化された分業体制つくられた。

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次に発見された鉄は農業、鉱業の面で銅以上の大きな役割を演じ人類の生活に多大な影響を与えた。 鉄鉱石は銅鉱石より広く地球表面に分布して入手しやすく、青銅より安く生産できしかも丈夫で長持ちする という利点があった。このため、鍬、鎌、斧など森林の伐採、土地の耕作、穀物の生産などに使われる道具類は 急速に鉄に代わっていった。

 

青銅
資源 鉄より少ない スズは貴重品 豊富
溶解温度 1000℃以上 700~900℃ 400~800℃ (還元作用時)
硬度 柔らかい 硬い 硬い
生産技術 簡単 高度 簡単

5.世界のモノづくりの歴史

1) 『古代ギリシャのモノづくり』

ギリシャは紀元前8世紀頃、アテネ、スパルタのなどの多くの都市国家を成立し 交通手段の進歩とともに安くて優れた商品が貿易として盛んに売られていた。

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バルテノン神殿

商品を安くつくりために労賃の要らない多数の奴隷が『ものづくり』に携わるよう になっていった。そこで『モノづくり』の仕事はすべて恥ずべきものと考えられる ようになった。
ソクラテスに師事したプラトンはその著書『法律』のなかで「国民たるものは機械的(手工業的)な 職業をやってはならない」と規定している 「職人」という言葉はギリシャでは「軽蔑すべきもの」という意味も含まれている。
このように古代ギリシャでは機械的(手工的)技術は奴隷的なものとして蔑まれてきた。 機械的という言葉は卑しいという意味でつくられた言葉とされている。
自由人と奴隷、学問と技術、理論と実践は相反するものであり機械的技術、実践的技術活動よりも 観念をはるか上位においていたのである。
西ヨーロッパの「モノづくり」に対する評価はいまだに古代ギリシャの思想を引いているように感じられる。

「古代ギリシャにおいて経験から生まれた知識は卑俗であり精神の中に生まれ育った知識だけが学問であると したのは間違いである」 経験を持たない学問は空虚であり謝りに満ちたものであった。 経験の中から生まれた「機械学」という学問はあらゆる学問の中で最も高貴でしかも有用なものである」
レオナルド・ダ・ビンチ

2)『古代インドのモノづくり』
インダス文明は紀元前2300年から2000年近くに渡って存在していた 。  驚異的な文明である。

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タージマハール
インドでは古代より厳格な身分制度(カースト制)が確立されておりバラモンは 最高位とさてれおり農業、製造業の人たちの評価は低かった。
下級の身分のものと間に生まれた子供の身分と職業は厳密に定められており 皮なめし工、漂白工、織物工、鍛冶工等に定められており極めて位置が低かった。
インドは現時でも工業生産の体制が整っていない。

3)『古代中国のモノづくり』

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万里の長城
技術者を表す古い言葉は「工匠」であり、「ものをつくる人」という意味である。 斧からできたとといわれる「工」の字が匚の中に入って「匠」という字ができた。
中国の古い文献に「周礼考工記」という書物があるその中で下記のような 内容の文が記載されている。
『・・・・・・道具や機械は知者によって発明された。巧者はそれを伝承し世代から世代へとそれを維持していくのは 工匠と呼ばれ金属を溶かして刀剣となし、土を固めて器とし、陸を行くものに車をつくり、水路をゆくのに船を作る、 これらすべて物を造る百工の仕事は聖人の仕事とされていたのである。
天には季節があり、地には気(地域的な影響)があり特定の材料には美が工匠には技がある。 材料に美があり工匠に技があってもよい物がうまれるとは限らない。季節が適していないか、 地の木気が熟していないからである。 天地材工が和してひとつになればはじめて良いものが生まれる』
このように『古代中国では「モノをつくる人」をく評価し職人頭を国工として国として大事にしていた。

 

4)『古代日本のモノづくり』

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出雲大社

古代から日本でのモノづくりは人間の持つ五感を大切にしていた。 勾玉、水晶に始まり刀、鏡などを作るときは斎戒沐浴し五感 を研ぎ澄ませてから製作をしていた。
修練を積み重ねたその人の全てをものつくりに打ち込むのである。 このように心を込めてつくったモノには心にぬくもりがこもり、つくった人の 心の温かさが伝わるといわれている。
高度な熟練を積んだ技能者は磨かれた優れた五感を持つようになっている。 その基本となるものは「ものづくりに打ち込む心」である。
日本では古来から「モノづくり」を通して人間そのものを磨き上げるという風習が強かった。 「道を極める」という修行であり、修練であった。
「モノつくり」に携わる人は師匠から「モノつくり」の技術を盗むようにして自分の技を磨いた。 心を込めてモノをつくることが『ココロとモノ』の一体化でありこれから必要とされる。

 

6.『工業社会の成立』

18世紀前半まで人類の衣生活は貧弱で羊毛、亜麻が主体であった。 イギリス国民一人当たり1平方メートル/年以下の消費量にすぎなかった。
繊維製品の供給量が少なく上流階級においても布地は貴重品であり耐久消費財であった。 その当時、繊維工業は問屋が羊毛を集め農家に紡績の貸し加工をさせる問屋制家内工業の形態であった。
木綿は元々インドの特産品でありイギリスではほとんど生産されていなかった。 東インド会社にて木綿製品の製造技術が飛躍的に進歩したことにより木綿製品が大量に生産されるようになり 木綿製品の需要が爆発的に増大した。 そのため木綿製品の輸入が増大したが羊毛織業者の反対によりインドからの輸入制限が行われるようになった。 そして国内での技術開発の必要に迫られた。
アークライト(水車駆動紡績機)クロンプトン(ジェーニー編み機)等 の技術開発及び工場生産によりイギリス国内で 品質の優れた綿製品が安く、大量に生産されるようになった。 工場の機械化が進むにつれて手職人の失業問題が生じてきた。 暴動が勃発し紡績機は破壊され優れた発明者は迫害をうけるようになった。
それまで世界第一の生産量を誇っていたインドの綿製品に高い輸入税を かけてインドの繊維産業をは破滅的にするとともに イギリスの繊維製造業を絶対有利にしていった。

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水車駆動紡績機

7.『工業社会の定着と人間生活に及ぼす影響』

 

繊維産業と鉄鋼産業とを世界のトップレベルにしようというイギリスの国家政策によって、繊 維や鉄鋼の集中大規模生産が始まる。さらに蒸気機関の実用化、蒸気機関車による鉄道の開設な どにより、いわゆる「産業革命」が成功する。人類は長い「狩猟生活」「農耕社会」から、まった く新しい「工業社会」に移っていった。

「農耕社会」の時代に、日の出とともに起き、日の入りとともに休む生活、自然と一緒に暮ら していた人間生活が、「工業社会」に入って一変するようになってきた。自然とは無関係に工場は 定時に作業が始まり、終了するようになった。作業時間が足りなくなれば真夜中まで残業して働 き、また作業の種類によっては、二交替・三交替で昼夜を分けず工場を運転しようとする。
それに合わせて、人間生活や、学校教育も変更を迫られるようになった。従来の長い経験と熟練と によって作業していた腕のある職人が、賃金を得るために工場に設置された工作機械の運転に携 わる職工へと変化していく。
工作機械を使い工場で繰返し生産する方式は、人類の「モノづくり」の長い生活の中では、非 常に短いことに注目する必要があろう。「工業社会」の成立は前述の時問軸にあてはめると、十二 月三十一日午後四時過ぎのことになる。
「工業社会」に生まれ育った我々は、「工業社会」における大量生産.大量消費こそが、 「モノづくり」の本来の姿と思いがちである。しかし各種の弊害が生まれ、人間生活や地球環境に深刻な 影響を与えつつある今こそ、「モノづくり」の原点に遡って、考え直す時期にきているのではないだろうか?

 

8.『互換生産方式への挑戦とその発展』

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1798年、米国にてホイットニーにより互換性生産方式の導入、実用化がなされた。 彼は軍と1万5千挺のマスケット銃を製作する契約をする。 マスケット銃は欧州にて使用されていたもので銃身の中に施条されていない滑空式の軍用長身銃である。

それまで銃を構成する勘合部品をつくるのにはそれぞれの組み合わせを決めいわゆるあわせ仕事によって 部品を作成していった。 そして出来上がったものにそれぞれ合わせマーキングをつけるやり方であった。
銃の部品がこのようにつくられているときは、戦場で使うとき大変都合が悪い。 ある銃の一部品が故障したとき、別の銃の部品を持ってきて組合わせ修理すること ができない。そこで一部品だけが故障した銃であっても、使い物にならず、捨てていかなければ ならない。
この不合理さを解決しようとしたのが、互換性のある部品をつくる方式であり、一七一七年に フランスの兵器工によって初めて考案されたという。一七八五年フランスで銃の製造にこの方法 の適用を試みたが、うまくいかなかった。部品製作の難しさ・測定精度の向上・従来からの生産 に対する考え方の変更などを伴わなければならなかったからである。
以前からフランスの事情に詳しいジェファーソンが、「互換式生産方式」の重要性を認識し、軍 に働きかけてマスケット銃の製造にあたり、ホイットニーにこの具体化を図らせるようにしたと いわれる。ホイットニーは「互換式生産方式」の概念もやりかたも知らずに始めた。彼は、とに かくマスケット銃の全部品を正確な寸法に仕上げ、どの部品でも組み上げることのできる方 式を具体化しようとした。
製造工程を多数の作業に分割し、それぞれの作業目的に適合した専用機を製作し、それによっ て加工するというやり方であった。部品製作にあたってはラッピングを多用し、また部品の測定 法についても多くの考案をしたといわれる。ホイットニーの才能に惚れ込んだジェファーソンは 陰になり日向になりして、援助し励ました。
苦労の末でき上がった銃100挺を、多くの関係者の目の前で全部バラバラに分解し、素人に それらの部品を組合わせて組上げさせるというデモンストレーションをやった。これが成功して 大変な評判となった。これが後に「アメリカ方式」と呼ばれるようになった生産方式である。基 礎となるものは、高精度工作機械、ジグの開発、精密測定ゲ-ジの採用などをあげることができ よう。
「互換式生産方式」の実用化は、素人集団であっても大量生産できるどいうので、アメリカの 生産技術をまたたく間に世界一の座に押し上げることになった。

T型フォード車
ミシガン州の農家生まれのフォードは、幼少時代から時計づくりに夢中で 、母親から「生まれつきの機械工」と呼ばれていた。十二歳のとき、 脱穀機についている蒸気機関を見て、「道路を走る機械をつくるのが 最大の夢だ」といったといわれる。
デトロイトの機械工場の工員などを経ているうちに、蒸気機関を 自動車用として使うには適していないとの結論を出し、内燃機関搭載の 自動車の将来性を見越していた。
1892年に最初のガソリン車を製作した。四馬力、二人乗りの車であった。1896年には 二台目の四サイクルエンジンの車をつくった。十九世紀の終わり頃、フォードの自動車設計を基 礎として、三社があいついで設立された。二番目のものが後のキャデラック社になリ、三番目の ものは1903年に設立され、現在のフォード杜に至っている。「世の中の顧客には安価な製品を 提供すること」、「工場で働く工員には高賃金を支払うこと」を経営方針とした。
1922年には、T型フォードの生産に乗り出した。この時、シャシー用の流れ組み立てライ ンを設置し、自動車の大量生産に乗り出した。ベルトコンベアを使って分業によリ細分化された 工程によるフォードシステムといわれる方法は、肉屋の店先で牛肉を手分けして肩.背.脚とそ いでいるのを見て、発想が生まれたという有名な話がある-トランスファ.エンジニアリンクの 実例の一つである一。組み立てラインの標準時間を従来の一日半から一時間半に減少する計画であ った。問題はそのラインに供給する部品の加工時間で、この難問題に挑戦したのが、ブラードだった。
彼は18分かかるフライホイールの切削時間を2分以内にする機械を開発し、フォードの 厳しい連続運転試験に耐え抜いて採用になったという。
T型フォード車はこのように大量生産され、それにつれて価格も低下していった。生産台数は 1927年までの15年間に1500万台に達した。一方車の価格は当初950ドルしたものが、 1925年には290ドルまで安くなった。コンベアシステムによる単一車種の集中生産による 効果である。自動車の大量生産の定着こそが近代アメリカ機械工業の発展の基となった。
ドイツのダイムラー、ベンツの発想を基に、大量に生産し、世界の輸送事情を一変させたので ある。それにつれて、自動車は多量に世界各国へ輸出されていくことになる。

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9.精密測定器類の実用化と工作機械の変化

「互換式生産方式」の進展・定着に伴い、各種測定技術が進歩し精密測定器がつくられるよう になった。アイデアはヨ-ロッパにあったものを、アメリカで実用化した例がきわめて多い。 その最初のものがノギスであった。
ブラウンはロードアイランド州の生まれで、若いときから工場で機械技術を学び、1833年 父に呼び戻されて、時計の生産を始めるようになる。時計生産に当たっては、当時のどの機械よ りも要求される精度が高かった。ブラウンは直線目盛り機を用いて、当時としてはまったく信じ られないような0.001インチロ盛りのスケールやノギスの生産を始めた。1851年のことである。
ノギスのアイデアはすでにヨーロッパにあったともいわれるが、加工できる機械がな いために実用化には至らなかった。ブラウンは高精度ノギスの実現に非常な誇りを持っていた。 精密測定器の革命といわれ、機械工業製品の精度向上、「互換式生産方式」の発達に大きく貢献した。
しかし最初の年にはわずか四台しか売れるなかったという。時代の二ーズとタイミングがマッチ する商品開発の大切なことを物語っている。ほどなく、「互換式生産方式」の遂行にはノギスは欠 かせない存在となった。
コルト社でノギスを用いたとき、嵌め合いの公差の設計基準を見直さなければならなかったという。 設計に当たって真の公差はどのくらい必要なのか、本当の値の測定ができないと決められないこと を物語る事実である。

1880年 ドイツ製
ねじを回転させながらその移動距離を測って物の長さを測定しようとする 方法の実用化は、十七世紀イギリスのガスコインに始まり、ワットを経て 、1805年のモーズレーに至る。
念入りに製作されたモーズレーのマイクロメータは、1万分の1インチまで 測定できるものであった。
ロンドンの英国博物館に現存するものについて1918年に測定したところ、ほとんど変化がな かったといわれる。モーズレーは人に見えない部屋にこの測定器を置き、寸法の争いが工場で生 じたときに、この測定器で測定して判定を下したといわれている。
現在のマイクロメータの基になるものは、フランスのパーマが1848年に特許を得たもので、 手軽に精密測定ができるものとして画期的なものであった。しかし実際には、粗いピッチのねじ を使っていたので、0.1ミリメートルの桁までしか測定できなかった。そこでフランスでは商 品化されることはなかった。
その頃アメリカでは金属板の板厚測定に問題が多く、1857年頃、ニューヨーク州のホーの 開発した測定器を用いて検査していたが、基準になるものではなかった。ブリッジポート青鋼会 社のウィルモットの注文に応じて、ブラウンとシャープとがその開発に乗りだし、初めはホーの 測定器の商品化を目指したがなかなかうまくいかない。1867年パリ万国博覧会に出品されて いたパーマのマイクロメータを見たブラウンとシャープは、その一台を購入して帰った。そして その改良を試み、1868年に初めて一台の携帯用のマイクロメータの製作に成功した。

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10.「工業社会」の「モノづくり」に対する反省

 

十八世紀のイギリスにおいて繊維産業・鉄鋼産業の集中大規模生産化、蒸気機関の実用化、蒸 気機関車による鉄道の敷設などにより、いわゆる「産業革命」が成功する。その後、アメリカで 「互換式生産方式」による銃器類の生産に始まり、ベルトコンベア方式による自動車の大量生産 の完成により、大規模工場で大量生産し、大量に消費する「工業社会」へと突入した。電気の発 明とともに、動力は次第に蒸気から電力へ、したがって水力・火力発電へと移行していった。さ らに、輸送手段も列車から自動車へと移っていく。

「工業社会」になると、社会や国の経済は、生産量の多寡によって決められ、企業問ではシェ ア争いが激化し、一国の経済力はGNPで評価されるようになっていく。「工業社会」におけるモ ノをつくる技術-生産技術-は、「優れた品質の製品を、安く、早く、繰返しつくる」技術である といえよう。消費者の立場にたって生産するというよりは、誰の手に渡るかわからないが、少し でも他社よりたくさん売れそうなモノを、少しでも早く開発し、資源・エネルギーの消費や地球 に与える影響などを考えることなく大量に生産し、世の中に売り出し、シェア争いに血道を上げ てきた。消費者は、販売された商品の中から、より自分の興味を引くモノ、趣味に近いモノを選 択・購入して使う以外方法がない。
商品のライフサイクルは、日を追って短くなり、故障して直そうとすると、すぐ修理対象外の 商品となっており、あるいは新品購入と同じくらいの費用がかかってしまう。寿命がきたり、故 障したら、捨てる以外方法がない。また選択・購入したモノは飽きやすく、部屋の片隅に追いや られるか、廃棄物へということになりやすい。大量消費された「モノ」の廃棄物処理は、世界的 規模で大きな問題となっている。
今こそ「モノづくり」の本質を考え直さなければならない。そのために「モノづくり」の哲学が必要となる。

■参考文献  著作名「モノづくりの哲学」 著者:小林 昭 出版社:工業調査会

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